断定恐怖症。

Photo credit: Evil Erin via Visualhunt.com / CC BY

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「〜である」

「〜しかない」

「〜だ」

 

ネット上でこういう断定調の文章を書くと、待ってましたとばかりに、

 

「〜もある」

「〜という人もいる」

「〜ばかりではない」

 

というような批判的ツッコミが入る場合がありますよね。
あまりにラディカルな内容であれば、そこから炎上する場合もあったりして…。

でも、表現の自由がある国で、自分の意見をしっかりと主張する人が責められるいわれはないと思うんです。

 

インターネットのお陰で、自分の意見を世界に向けて発信できるようになったも関わらず、外部からの批判を恐れて自分の意見を表明できないなら、何のためにネットを使っているんだろう?

 

相互監視のため?そんなはずはないでしょ。そんなことでは、益々不自由になっていくばかり。

 

批判してた人も、自分の意見を書きたいときに、「批判されるかかも…」と恐怖することになってしまう。自分が批判してたんだから、その不安は何より確実なはず。

 

最終的に、批判してる方も、されている方も、これは自分達が望んだネットのカタチではないと気づくことになるのではないでしょうか。

 

誰それの意見もアリだと認めた上で、私はこう思う。というのであれば問題ないと思うんですが……、問題なのは批判のための批判

 

こんなのは無意味でしかないし、最終的に自分自身を縛ることになります。

 

冷静に考えてみてください。

 

「〜である。でもそうじゃない人もいるよね。」

「〜しかない。でもそうじゃない場合もあるよね。」

「〜だ。違う人もいるけど。」

 

こういう文章は何か語っているようで、実際何も語っていないに等しいですし、何の説得力もありません。こんな文章を読むのも書くのも時間の無駄でしょう。

 

もし、誰かに対して、批判のための批判をし続けるなら、ネットの情報はこのような無意味なものになっていきます。相手は萎縮するので、それ以上の情報は引き出せませんし、自分の知らない情報を得るチャンスを自ら塞いでいることになります。

 

批判のための批判をやめ、相手から自分の知らない情報を引き出せれば、建設的なコミュニケーションができるはず。

 

その第一歩は、断定すること。

断定すると文章に力がでます。

力のある文章には人が惹きつけられます。

 

断定した意見に惹きつけられた人の中で、建設的な批判や意見を返してくれる人たちが出てくる。そういう人たちとコミュニケーションすれば、お互いの情報を引き出しあい、成長していけるのではないでしょうか。

(※逆でもOK。断定調の意見を書いている人に語りかけてみるのもよい。)

 

断定することは、一見自分の意見以外を拒絶しているように見えるかもしれないけれど、そうではありません。コミュニケートすべき人たちを選別する行為だといえます。ある種のフィルタリングです。

 

もし、断定しなければ、誰も惹きつけられません。
なぜなら、断定しない文章の内容は無に等しいからです。

 

「〜かもしれない。そうでないかもしれない。」

 

こんな文章に「私もそう思う」なんて返してきてくれる暇な人はいないでしょう。もしいるとして、そんな人と会話するだけの価値が有るでしょうか?会話する時間分、何か有用なものを引き出しあえるでしょうか?

 

だからこそ、相手にとっても自分にとっても断定することは良いことなんだと思います。

 

もし、断定するのが怖い、慣れていない、ということであれば、「私はこう思う」というような形から始めてみるのも一つの手です。

 

インターネットの中でさえも、オドオドしていていなくちゃいけないなんて、面白くないでしょ。

 

あなたの意見が聞きたい人はいます。多少曲がっていても、無味無臭の文章よりは断然いい。

インターネットなら周りを気にせずそれが出来るのだから、自分の思ったことを書けばいい。

 

私も思ったことを書いていきたい。